日本語版の『シンデレラ物語』のオープニングテーマでは、最初にがアニメのタイトルが表示されると、次に表示されるのは、「原作 シャルル・ペロー」の文字です。
今回は、シャルル・ペローのプロフィールをお伝えします。
ペローは17世紀後半に活躍した人。
ペローは17世紀後半に活躍した、フランスの詩人、童話作家です。1628年パリ生まれ。1703年、75歳でやはりパリでなくなりました。
現役時代の彼の仕事は、いまでいえば政治家、あるいは官僚で、太陽王として知られるルイ14世の宮廷(ブルボン王朝)で、文学や芸術関係のアドバイザーみたいな仕事をしていました。
ペローはいろいろな本をたくさん書いていますが、若いころ書いていた本はどちらかというと学術書みたいなおかたい本で、いまは一部の研究者以外は読まないと思います。
ルイ14世の治世にほれこんでいたのか、昔の作家にくらべると今の作家のほうがずっとすばらしい、という新旧論争をしたりしました。
グリム兄弟やアンデルセンに比べると知名度の低いペローですが、童話作家として、文学に大きな貢献をしています。
ペローの名を後世に残したたった1冊の本
ペローがいまも知られているのは、1697年に出版した、Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l’Oye 『寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話』 という本によってです。
この本のタイトルはやたらと長いため、日本では、『ペロー童話集』という名前で呼ばれています。童話のあとに、ちょっとした教訓がそえられています。
この本には民間伝承をまとめた8つのおとぎ話が入っています。
- Le Petit Chaperon rouge (赤ずきん)
- Le Chat botté (長靴をはいた猫)
- La Barbe Bleue (青ひげ)
- La Belle au bois dormant (眠れる森の美女)
- Les Fées (仙女たち)
- Cendrillon, ou la Petite Pantoufle de verre (シンデレラ)
- Riquet à La houppe(巻き毛のリケ)
- Le Petit Poucet (親指小僧・親指太郎)
お話はたった8つですし、仙女たちと、リケはあまり知られていませんが、なんといっても赤ずきんちゃんと、シンデレラと眠れる森の美女が入っていますからね。これはもう強力です。
『がちょうおばさんの話』は、マザーグースのことで、これはイギリスの伝承童謡として知られていますが、最初にマザーグースの話を集めたのは、シャルル・ペローです。
この本があるかぎり、ペローの名はこれからも不滅ではないでしょうか?
ペローは民間伝承を童話にまとめた最初の人
この本に入っている話のほとんどは、当時、宮廷に集っていた王族や貴族は、皆知っていました。すべて、口頭で伝えられていたからです。しかし、童話として、文字に表したところに彼の功績があります。
ほかの人も書いたのでしょうが、クオリティーに難があり、残らなかったのだと思います。
当時宮廷では、女性たちのあいだで、童話を収集したり、自分で書いたりすることがはやっていました。基本、貴族のご婦人はひまだから、そういうことをするんでしょうね。
源氏物語に出てくるお姫様も、歌を詠んだり、絵合わせしたりしています。
そういう童話サロンの中で、ペローは黒一点というか、たった一人の男性でしたが、彼の書くものは、子供にもわかりやすく、しかも、小説としておもしろく、みょうに洗練されていたのです。
彼が童話としてまとめなかったら、こうしたお話のいくつかは、今は残っていなかったかもしれません。
グリム兄弟が民話を収集した童話集をだしたのは、ペローの時代から100年以上あとのことです。
勉強が得意、文章を書くのもうまかったペロー
ペローはパリの金持ち(お父さんの仕事は司法関係)の家の、7人兄弟(姉妹もいたかもしれません)の末っ子として生まれました。幼いときからとても勉強好きで、エリート校に通い、成績はいつもトップ。学校では法律を学びました。
いま、誰でも大学生になれますが、17世紀のフランスの学校はとてもきびしかったそうです。小さいときから、ラテン語の勉強をし、ギリシャやローマ時代の古典もしっかり読んでいました。
彼は一応、弁護士になり、パリの税金を取りたてる仕事などしていました。彼が、宮廷の仕事をできるようになったのは、文章がうまかったからです。当時、コルベールという財政改革をしたことで有名な政治家がいましたが、ペローは彼に気に入られて宮廷入りしました。
ペローは、アカデミー・フランセーズの会員にもなっています。
美しいものが好きだったペロー
ペローは、哲学や政治に関係した文章を書いていましたが、ほかにも王さまの依頼で、建築物のデザインにかかわる仕事をしたり、タペストリーをデザインしたり、王をたたえる詩を書いたりしました(詩は自発的に書いたんでしょうけれど)。
ペローは、美しいものが好きで、ほかの人の人生にも美しいものをもたらしたいと考えていました。
「チュイルリー宮殿の庭は、王様しか見られないことにしよう」という案がほかの貴族から出たとき、ペローは、「いや、この庭は誰でも見られるようにすべきだ」と主張しました。
また、アカデミー・フランセーズの会員になったとき、そのセレモニーも、一般公開すべきだ、とペローが主張し、このときはじめて公開されました。
晩年になって童話を書き始める
1683年にコルベールが亡くなったとき、ペローは、宮廷での後ろだてをうしない、50代なかばぐらいで、引退することになりました。
ペローは、『シンデレラ』の教訓に、「どんなに才能があっても、努力をしても、後見人がいなければ、何の役にもたちませんから(きっぱり)」といった内容を書いています。これは、たぶん、自分の体験から確信をもって書いているのでしょう。
また、長年、宮廷で働いていて、さまざまな人間関係を見てきて達観したことでもあったのでしょう。宮廷では、身内びいきが多かったと思われます。
引退するころ、奥さんを病気でなくしたこともあって、ペローは、その後はものを書きながら、自分のこどもの教育に力を入れることにしました(彼は50歳で父親になっています。奥さんとはかなりの年齢差がありました)。
ペローが、『ペロー童話集』を出版した1697年は、すでに彼は69歳になっていました。
この小さな童話集は、小さいときから学ぶことが大好きで、ばりばり勉強し、いろいろな文章をがんがん書いてきたペローが、生涯をかけてつちかってきたものを、結実させたものではないでしょうか?
だから、単なる子供むけの童話で終わらず、300年以上たった今も、人々に愛され、バレエ、オペラ、演劇、映画、テレビ、漫画などあらゆるメディアで取り上げられているのでしょう。
ペローは新しいものが好きで、いろいろなことを意欲的に勉強してきました。その彼の名を後世に残したのは、大昔から伝わる童話である、というのもおもしろいですね。
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